『太子町「王陵の谷」と「近つ飛鳥博物館」(その1)』からの続き
太子町「王陵の谷」と歴史のおさらい
ここから先は、飛鳥時代、大化の改新前後の政治情勢を知らないと、何を見学に来ているのかわからなくなる。 『いっきに学び直す日本史』(2016年 東洋経済新報社 刊)から、この時期の政治情勢についての記述を抜粋すると、次のようになる。 太字の人物は、今回めぐった陵墓の人物。
蘇我氏は朝廷の財政をにぎり、渡来人とも結んで大和朝廷の再編成に積極的に取り組んでいた。仏教の受容をめぐって物部尾輿と蘇我稲目は激しく争ったが、587年に用明天皇がなくなると、皇位継承をめぐって両氏の争いは爆発し、物部守屋は蘇我馬子に攻められ、物部氏は滅びて蘇我氏が専権を振るうことになった。
592年、蘇我馬子は渡来人を使って崇峻天皇を殺害するに至った。このようななかで、最初の女帝推古天皇が即位し、翌593年には天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)が摂政となり、蘇我氏と共に政治にあたり、政局の打開にあたることになった。彼らの使命は天皇を中心とする統一的な国家組織を作るという仕事を推進していくことであった。そのための治績として特に注目すべきものは、603年の冠位十二階の制定と、604年の憲法十七条の制定であった。
また、随に使節を派遣し、大陸文化を摂取して国力の充実をはかろうとした。607年には小野妹子を随に派遣し、随と対等の立場で貫かれた国書を持参したという。
622年の厩戸王の死後、蘇我氏は再び権勢をふるい、馬子の子蝦夷は、太子の子山背大兄王をおさえて舒明天皇を擁立した。舒明天皇のあと、蝦夷は舒明天皇の皇后であった女帝皇極天皇を立て、蝦夷の子入鹿が政治にあたるようになって、入鹿の専横が目立ってきた。643年に入鹿が山背大兄王を襲って滅ぼしてからは、廷臣の中にも蘇我氏の専横に反発する動きがあらわれてきた。
このような情勢のもとで、中大兄皇子と中臣鎌足はひそかに蘇我氏打倒の計画を進め、阿倍仲麻呂や蘇我倉山田石川麻呂らとはかって、645年に蘇我入鹿を大極殿にて暗殺した。本家が滅亡した蘇我氏は急速に没落することになり、これを乙巳の変という。
蘇我倉山田石川麻呂の墓
推古天皇陵を観たのち、約500mほど北にある蘇我倉山田石川麻呂の墓へ向かう。ここから先は、太子町の旧市街で、古くからの住宅が集まる地区。
その一角、仏陀寺の塀の外にひっそりと蘇我倉山田石川麻呂の墓とされる石柱が立っている。蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我氏一族だが乙巳の変では蘇我入鹿を討つ中大兄皇子・中臣鎌足側についている。
その後、太子町の旧市街中心にあるファミリーマートで昼食。
近つ飛鳥博物館
2.2km南西の林の中にある「近つ飛鳥博物館」に向かう。 妙な名前の博物館だが、「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」は二上山(大阪・奈良県境)を挟んで西と東にある由緒ある地名だそうだ。
太子町の小さな旧市街を出て、午前中に観た推古天皇陵のところから、田畑の間にまばらに住宅などが建ち並んでいる一直線の道を1kmほど西へ。そこで南へ折れてアップダウンが幾度かある丘陵地を走る。
降りて登って、また降りてという道を進んでいくと、林の中に忽然とコンクリートむき出しの建物が現れる。この奇抜な建物は、著名な建築家の安藤忠雄が設計した作品だそうだ。
無駄のないシンプルさが気持ちの良い空間を作っている。 さすが、有名な建築家に設計を依頼しただけはある…
ここは古墳に関する博物館なので、まずは埴輪から…
アヒルのような埴輪まであったんですね…
次は金属製品
仿製 三角縁神獣鏡(4世紀)
「仿製(ぼうせい)」 というのは、中国製を真似して造られた国産品ということだそうだ。 それに対して輸入品のことを「舶載」というそうだ。
鉄はほぼ錆びてボロボロですね
さすが金はそのままの形で残っている
次は焼物
古墳時代に朝鮮半島から伝えられ、平安時代まで生産された須恵器
土師器は弥生時代から国内で作られ始め、こちらも平安時代まで生産されていた
つぎは、古墳に収められた石棺形状の時代変遷
写真の手前より割竹形石棺、長持形石棺、刳り抜き式家形石棺(舟形石棺)、組合せ式家形石棺。 それぞれ、4世紀ごろ、5世紀ごろ、4〜5世紀ごろ、6世紀ごろに使われた形式だそうだ。
重い石材を運んだと考えられている、巨大な木製の修羅。5〜7世紀頃に使われたと考えられている。
一須賀古墳群
近つ飛鳥博物館の周辺は小さな古墳が点在する一須賀古墳群という場所らしい。そのうちのひとつが…
一般人には単なる地中の岩が露頭しているとしか見えないので、新興住宅地に造成されようとしていたそうだ。 誰かが「古墳」と気づいたため、今こうして保存されて見ることが出来る。
用明天皇陵
近つ飛鳥博物館から北へ1.7km、再び林の中のアップダウンの激しい道をひたすら走り、旧市街の西はずれにある用明天皇陵へ。太子町の旧市街に近い住宅街の中にある。
蘇我馬子の墓
いよいよ今日の観光も最終目的地に近づいてきた。 聖徳太子廟のある叡福寺の前をいったん通り過ぎ、旧家の建ち並ぶ住宅街にある蘇我馬子の墓へ。叡福寺の前がすり鉢状に低い土地になっていて、坂を登ったり降りたりと、もう勘弁してほしい…
乙巳の変で朝敵となった蘇我氏棟梁の墓が堂々と残るはずもなく、ここも「伝 蘇我馬子の墓」となっている。
聖徳太子廟
叡福寺の境内に、聖徳太子廟がある
大きな寺院のようだ
「太子廟」と書かれた扁額は、岸信介総理大臣が揮毫したもの
叡福寺・太子廟の絵図 「西方寺境内古図 天保4年1833年」
聖徳太子廟は、叡福寺金堂の斜め後ろにあるようだ。 南大門から真正面に一直線に延びる石畳の道は、寺の中心である金堂ではなく、聖徳太子廟の方向へ向かっている。
前出の絵図では、聖徳太子の塚は廟の建物の後ろに鎮座する小高い山の頂上。 かなり標高差があり、木も鬱蒼と茂っているので、頂上に石碑があるのかどうかなどは全く見えない。
今日の周遊刊行の予定地はすべて回り終えた。
叡福寺から2km北にある上ノ太子駅に戻るには、高度成長期に丘陵地を切り開いて造られた聖和台を通り抜けていかないといけない。
叡福寺前の交差点から聖和台の方を眺めると、延々と坂道が続いている。この町で自転車に乗っている人をほとんど見かけない理由は、あらゆるところが坂道だからだろう。たった2kmでも、悪夢でしか無いようなこの坂道をひたすら登る。
■ 近鉄南大阪線 上ノ太子駅 15:25発 → 15:30着 古市駅 15:36発 → 阿倍野橋駅 15:57着 (運賃 410円)