京都御所に時代祭の行列を観に行ってきた。
葵祭のときと行列コースが若干違い、建礼門西側の「清水谷家の椋」の撮影ポイントは、時代祭では使えない。 ということで、定番の堺町御門の手前のカーブ部分で撮影した
参考になるWebページ : 京都Navi 時代祭行列について (公式Web) 、 平安神宮 行列の概要、 第七天国 時代祭巡回ルート・隊列
12時ちょうど、建礼門前の有料席付近でMCのアナウンスがあり、行列が出発したらしいことがわかる。
横断幕
祭り行列の先頭は、時代祭のスローガン(?)横断幕と、平安時代の壺装束を纏った女性の行列
京都文化交流コンベンションビューローのWebページによれば、先頭を歩く壺装束の美女集団(?)は地元の宿泊施設の人たちだとか。
名誉奉行列
むちゃくちゃ嬉しそうに、満面の笑顔で沿道に手を振っています。 そりゃ、嬉しいでしょうな… 選挙に通った人しか味わえない、役得ですね。
明治維新時代
維新勤王隊
維新勤王隊は、官軍に加わって戊辰戦争を戦った山国隊のこと。
維新志士
長州藩士の出身で、維新の三傑の一人。
薩摩藩士で、明治新政府では陸軍大将。 新政府の方針に反発し、西南戦争で没する。
土佐藩郷士で、脱藩後は亀山社中を設立し貿易業で活躍すると共に、薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で暗殺される。
長州藩士で、奇兵隊創設し過激な倒幕活動の先頭に立つ。大政奉還の半年前に病没。
七卿落
「七卿落ち」とは、1863年8月18日に“幕府の改革に期待する”孝明天皇や会津藩などが、“幕府を排して急進改革をめざす”三条実美や長州藩などを粛清した「八月十八日の政変」で、7人の公家が京都から追放された事をさす。
真木和泉守(真木保臣)は久留米藩士。天皇を中心とする国を造り、軍事力を増強して夷狄を打ち払うとした急進派。
久坂玄瑞は長州藩士で、吉田松陰の妹を妻とした。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。
両者ともに、禁門の変のときに没した。
写真に収められているのは七卿の公家や貴族たちのうち6名。彼らは明治時代まで生き延び政府の要職などについた人たち。三条実美(明治時代に右大臣、太政大臣)、三條西季知(明治時代に参与)、東久世通禧(明治時代に開拓長官、侍従長)、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳までが写真内で、その後ろに澤宣嘉(明治時代に初代外務卿)が歩いているはず。
儒学者だが、勤王運動にのめり込んだ。安政の大獄で幕府に捕らえられて、橋本左内などと共に斬首された。
福井藩藩士で、藩校・明道館御用掛り・学監同様となる知恵者。藩主松平春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開したため、安政の大獄で幕府に捕らえられ斬首される。
正一位で、江戸時代には左大臣や関白を務めた。明治になり東京遷都後したのちも、最も長く京都に住み続けた。正一位に昇った人物の中では最も後年まで存命であり、1898年没。
正一位で、江戸時代には内大臣などを務めた。明治期の元勲・三条実美の父。
禁門の変では長州藩の動きを支持したため、孝明天皇の怒りを買って処罰された。明治政府の議定。
江戸時代
徳川城使上洛列
年始や朝廷の重要な儀式が行われるときに上洛させた城使の行列
挟箱(はさみばこ)は家紋の入った携帯用の物入で、衣類などを持ち歩くために使われた
江戸時代婦人列
仁孝天皇の第八皇女で、14代将軍・徳川家茂の正室となった。家茂死後も江戸城に留まり、徳川家に対する寛大な処分や江戸城総攻撃の阻止に奔走した。
江戸時代中期の女性文人画家・歌人・書家。蘭竹梅菊の山水画が有名。
中村内蔵助は江戸時代の億万長者。京都銀座方の役人で金銀の改鋳で巨万の富を得た。
吉野太夫は京都の太夫に代々伝わる名跡。
安土桃山時代の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始した。