生駒山系の北端、四條畷市と大東市の市境にある飯盛城址と野崎城址に登ってきた。
・ヤマレコに投稿した記事『生駒山系飯盛山(飯盛城址)から室池、野崎城址』もあります
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飯盛山城
生駒山系の飯盛山(標高341m)の山頂に築かれた中世の城。中世の山城としては、かなり大きな部類に属し、強固な要塞。
室町幕府成立直後の南北朝時代(1336年 – 1392年)に始めてこの地に山城が築かれたとされ、北朝側(足利幕府側)の武将が飯盛城に着陣し、楠木正行率いる南朝側が玉砕攻撃をかけたとされる。
現在以降として残っている規模の城となったのは戦国時代のことで、守護代木沢長政がここを居城とした時のこと(1531年)。やがて、太平寺の戦い(1542年の)で木沢氏を打ち負かした三好長慶が飯盛山城の城主となり、南北約1,200m、東西約500mの城域に大小70の郭を有する山城となった。信長側に下った長慶の死後(1564年)、三好三人衆などが城を治めていたが、信長による国替えで畠山氏(畠山昭高)の治める城となった。その畠山氏の家臣(遊佐信教)が叛乱を図り飯盛山城に立て籠もったため、織田信長の反撃(高屋城の戦い 1574年-1575年)により飯盛山城は落城し廃城となったとされる。
以上、Wikipedia『飯盛山城』の要約。
福島区民としては、三好三人衆が治めていた野田城が、信長側の総攻撃にあって落城したのと同じ構図が、妙に親近感を覚えたので本日の訪問となった。
野崎城
野崎城は飯盛山南西の尾根、野崎観音の裏山(標高111m)に築かれた山城。
四條畷の戦いで、北朝側の縣下野守が立て籠もった野崎城を、南朝側の楠木正行が攻めたという記録があるそうだ。
戦国時代には飯盛山城の出城となっていたと考えられており、飯盛山城と同時期に廃城となったとされる。
自宅 〜 四條畷神社 (登山口)
■ JR 東西線 快速列車 海老江駅 08:15発 → 四条畷駅 08:42着 (運賃300円)
1985年から1995年に公営住宅が建て替えられた際に、発掘調査が行われ、縄文時代・弥生時代・古墳時代・鎌倉時代の遺物や建物跡などが発掘されたそうだ。北新町遺跡と呼ばれるようになり、Webで発掘調査記録を読むことができる。
団地の中には、目立たない場所に看板がひとつあるだけだ。地元の人も、ここが縄文時代からずっと人の活動が行われてきた場所だとは知らないのかもしれない。
しかし、1995年に建てられたにしては、いかにも時代遅れの使い勝手の悪そうな建物だ。役所はセンス無いね。
団地を抜けると住宅街。その中に「小楠公御墓所」がある。小楠公とは、楠木正成(大楠公)の子の楠木正行のことだ。
墓所の祠の左奥に、樹齢600年とされる巨大なクスノキがある。
小楠公御墓所の前から真東に、生駒山脈にぶつかる場所まで一直線に道が延びている。突き当りには楠木正行を祀る四條畷神社がある。この道を、四條畷神社の表参道と呼んでいるらしい。
1.0km先に生駒山脈の支脈が見えている。
飯盛山のある生駒山脈の支脈は、稜線の標高が300m程度。麓からの標高差は250mほどだ。
明日が投票日の市会議員候補の選挙カーが、必死のお願いを連呼しながら通りすぎてゆく。“当選が危うい状況になっています…” と、世論調査結果で当落線上にあるのだろうか。
傍らの高札によれば
“楠木正成公死を覚悟の兵庫出陣に当り、桜井駅において十一歳の我が子正行公との別れに『父の死後は足利氏の天下になるだろうが、どこまでも正当の天皇を御守りせよ。それが父への孝行となるのだ』と諭し、天皇から賜った短刀を与え身も心も我が子に伝えて出陣された”
との逸話を示した像とのことだ。
四條畷神社の南隣にある登山口から、飯盛城址目指して登山開始
飯盛山 (四條畷神社 〜 山頂 〜 FM送信所 〜 虎口跡
登山道は四條畷神社の裏手を回りこんで、飯盛山の稜線に取り付く。そこから稜線上をまっすぐ山頂に向かって緩急を繰り返す登山道となっている。
稜線の北端付近は急登。丸太で地面を補強した階段が延々と続く。
標高200m付近でいったん平坦になる。 かつての郭跡だろうか
標高200m付近、220m付近でかつての郭跡と思われる平らな場所を通過し、登山道は標高250m付近の二ノ丸跡へ。
二ノ丸史蹟碑郭には大きな史蹟碑が建てられていて、ベンチなどが置かれた休憩所にもなっている。大阪平野側は木が切り払われて、眺望が良い。
視界の中心は、大阪市の市街地や六甲山。もっとも右方向には、JR高槻駅と京阪香里園駅付近のビル群見えている。左方向は東大阪市役所やJR堺駅の高層マンションはもちろん、JR久宝寺の高層マンションも見えている。
感覚的には、生駒山頂からの眺望よりも広い範囲が見えている。
飯盛城 二ノ丸史蹟碑郭からの眺望 (大阪市中心部や六甲山系方向)
飯盛城 二ノ丸史蹟碑郭からの眺望 (画面中央に長田駅の東大阪市役所付近)
さらに山頂方向を目指す。
稜線は少し削られて(堀切?)、その先にある二ノ丸御体塚郭は登れないほどの段差になっている。稜線の脇をトラバースして、標高270mほどの所にある二ノ丸御体塚郭に登る。
二ノ丸御体塚郭のど真ん中は岩が突き出ていて、そこに「登山三百回記念碑」なるものが建っている。
ここが「御体塚」とされているのは、戦国時代に飯盛城を居城とした三好長慶が死去した時、その死を隠すために遺体を3年間この場所に置いていたからだそうだ。
その歴史的な場所に、「登山三百回記念碑」という一部の個人の趣味のような石碑…
“登山三百回記念。 世界最高峰エヴェレスト一万九千尺。飯盛山高一千尺。三百倍之三十万尺”
登山300回記念に、四條畷中学校の校長が建てたものだそうだ。 個人的な自慢をしたいなら、史蹟でやるのではなく自宅でやれや。 バカ権力者には付ける薬もないわね
さらに山頂方向へ、稜線上の尾根道を登る。本丸三本松郭と蔵屋敷郭の間には、大きな岩を削って階段を作った所がある。
この階段を登ると、本丸蔵屋敷郭
小さい木造倉庫程度なら建てられたくらいの広さはある。
蔵屋敷郭から少し登れば、山頂の展望台がある本丸展望台郭。
南北方向の視界は木で遮られているので、ここからは大阪市内中心方向が見える。その手前の大きな公園緑地は、深北緑地。
展望台のすぐ南側には、飯盛山の山頂、本丸高櫓郭がある
飯盛山に着陣していたのは東高野街道を南下してきた北朝(足利)側の高師直の軍勢。対する南朝側の楠木正行は東高や街道を北上し東大阪市 瓢箪山駅付近の生駒山麓にある往生院に着陣していた。
6万人から8万人と言われる北条軍に対し、南朝軍はたったの3千。
敵将の高ノ師直は、正月三日から四条畷をまえに重厚な陣をしき、武田伊豆守の先鋒はすすんで田の畔から平野の湿地帯にまですきまもない兵を充て、県下野守の一陣は飯盛山に、また佐々木入道道誉は生駒山の南に――といったふうに、無慮三、四万の大軍を霞むばかりにしていたのである。
この日の正行は、深重な策をめぐらすでもなく、全軍数千にもたりない小勢で、それも一角へ当たるというようなこころみでなく、まっ向、敵の師直のふところ深い本陣へむかって猛然斬り込んで行ったのだった。
つまり初手から玉砕を期していたものとしか見えず…
正成の遺言を守り、南朝側の武将として潔く散った楠木正行の像を山頂に建てたのは、地元の人達の正行(小楠公)愛の大きさゆえだろう。
明治から第二次世界大戦前まで、南朝正統論に基づき国威発揚のため崇められた楠木氏ゆかりの地に、国旗掲揚台を設けることは重要だったのだろう。
“劣勢の南朝に何ももとめることなくただ忠義を尽くして死ぬまで戦った楠木正成親子を日本人(臣民)の模範だと位置づける” ことが重要だった。 (波田永実 著 「国体論の形成 I」)
掲揚台の部屋の上部には『国威宣揚。四條畷警察署官下警防団 結団記念建之』と彫られた石版が嵌めこまれている。
稜線上をさらに南へ行くと、いったん堀切の底に下り、再び本丸千畳敷郭に登り返す形になる。
山道はここで終わり、FM送信所の作業車が走る舗装道路(管理道)に変わる。
NHK FM(88.1MHz)、FM 大阪(85.1MHz)、FM 802(80.2MHz)の在阪3局全てが、この送信所から放送している。
FM送信所のある場所も、先ほど通ってきた楠木正行像のある場所も、標高は310mほどの山頂だ。どちらのほうが主峰(高い)のかは知らないが、ピークが2つある双耳峰となっている。
本丸千畳敷郭には、誰が作って置いたのか、ドングリの実で作られた芸術作品が…
主稜線をさらに南へ向かうと、なだらかに下り坂となっている。この下り坂は、築城時に尾根を削りとった掘割で、本丸千畳敷郭と掘割の境界には「虎口」と呼ばれる敵の進入突破を難しくした城の出入り口がある。
虎口を出て、なだらかに下ってゆき、再び尾根筋を南へ。
しばらく行くと、野崎観音へ向かう道(竹林コース)が分岐する場所に出る。分岐点の標高は270m。野崎観音・野崎城へは帰りの下山コースとして考えているため、もと来た道を引き返して室池へ向かう。
『飯盛城址(飯盛山)〜室池〜野崎城址 : その2』 に続く