奈良への旅行。『奈良(その1) : 興福寺・飛火野・東大寺』からの続き
古都の旅行は古地図をたよりに… ということで、今回使ったのは和州奈良之図。 三笠山(若草山)と春日山を背にした奈良盆地を描いているので、上が東、左が北となっている。
天保15年の東大寺・春日大社の地図 (和州奈良之図)
東大寺 鐘楼
正倉院を観たのち、東大寺講堂跡を横切り、鐘楼に向かう。 東大寺大仏殿は外国人観光客が目立ったが、正倉院や鐘楼、二月堂では外国人をほとんど見かけない。そのかわり、遠足や修学旅行の小学生がたくさんいる。
鐘楼は鎌倉時代に建てられたものだが、梵鐘は大仏開眼と同時期の奈良時代に鋳造されたものだという。
「奈良次郎」とも呼ばれる梵鐘は、中世以前の梵鐘としては最大の大きさで、高さ3.85m、口径2.71m。 NHKの「ゆく年くる年」で中継が行われることもある名所。
東大寺 二月堂
鐘楼を観たのち、三笠山(若草山)の山麓ぎりぎりにある二月堂へ。 江戸時代初期に再建された建物で、毎年、旧暦の2月に行われるお水取りの儀式で有名。
手前にある祠は興成社、その脇に良弁杉(ろうべんすぎ)がある。
この杉は、奈良時代の僧 良弁が子供の頃、『母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられた』 という逸話から名付けられたそうだ。
二月堂には大観音と小観音が収められているが、外からその姿を伺うことは出来ない。
裏手に無料の休憩所がある。 お茶とお水を無料でもらうことが出来る。 ここで、昼食に持参したパンを食べた。
東大寺 三月堂(法華堂)
二月堂の隣には三月堂、通路を挟んだ西側には四月堂… おそらく意味あっての命名なのだろう。
Webで調べると、『二月堂は旧暦2月に修二会(お水取り)が、三月堂は3月に法華会が、四月堂は4月に法華三昧が行われたから、伽藍の命名の根拠となった』そうだ。
三月堂(法華堂)の拝観料は600円。 奈良時代より戦火をかいくぐって残存した、東大寺で最古の建築物だ。
不空羂索観音立像 (乾漆造)を中心に10体の国宝の仏像が収められている。
観音像の左手前の大きな柱の上の方に、銃弾か矢であいたと思われる穴を埋めたような痕跡がある。過去の戦火の名残なのだろうか…
手向山八幡宮
東大寺三月堂(法華堂)の南隣には、手向山八幡宮。 大仏建立時に、宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された神社だそうだ。
菅原道真が、
“ このたびは 幣もとりあへず手向山
紅葉の錦 神のまにまに ”
と詠んだときに腰掛けた場所と言われている。
古梅園は、天正5年(1577)に創業した日本最古の製墨業社だという。
三笠山(若草山)
東大寺から春日大社に向かう道は、三笠山(若草山)の山麓を横切っている。山麓の芝生が生えた部分は有料公園。山頂は標高341.7mで、この有料公園の中を横切る登山道のコースタイムは片道30分程度だそうだ。
有料公園の「入山料」は150円。今回は登山目的ではないので、麓から仰ぎ見るだけ。
春日大社
若草山の麓を横切ると、春日大社の境内。その入口に茶店があり、外国人観光客で賑わっている。
道路側に掲示されているメニューは外国人向けで、英語(日本語併記)と言う感じだ。
境内の森には、鹿がそこら中にいます
阿倍仲麻呂が中国留学中に、故郷を想い詠んだ詩の歌碑がある
“ 天の原 ふりさけみれば 春日なる
三笠の山に いでし月かも ”
この詩は中国で詠んだのだから、もしかしたら中国語で詠んだのかもしれない。去年の春、中国の鎮江に行った時に、仲麻呂の歌碑を見たのだが、それには中国語と日本語の両方で詩が書かれていた。
“ 翘首望东天,神驰奈良边
三笠山顶上,想又皎月圆 ”
多くの外国人旅行者のあとに続き、本殿回廊の南門より春日大社の本殿境内に入る。門のすぐ内側は参拝所。
特別参拝料500円を払えば、参拝所より内側に入ることが出来る。
この中門の内側に、後殿(第一殿から第四殿)がある。 中門の内側に入ることは出来ないし、撮影も出来ない。
樹齢千年、幹の周り7.94mの大杉。鎌倉時代からこの地にあるという。
本殿が造られるより前から、神が居る山として信仰の対象だった御蓋山(みかさやま)の遥拝所。
ここでいう御蓋山(春日山)は、同じ「読み方」の三笠山(若草山)とは違う山。
後殿(第一殿から第四殿)があるが、門より内側に入ることは出来ない。門の隙間から覗き見るくらい…
日本で一番多く燈籠が奉納されているとされる春日大社。 灯篭を入れて記念写真を撮る人も多い。
南門を出て、隣の若宮に向かう。
若宮神社
本殿の第四殿に祀られていた水を司る神「天押雲根命様」を平安末期に遷宮して造営した神社。
春日山原始林
志賀直哉旧居に向かうため、春日山原始林の中を横切る禰宜道を進む。
原始林の大部分は進入禁止だが、この禰宜道はその雰囲気がよく分かる林の中を通る道だ。
志賀直哉旧居
「中の禰宜道」を通り抜けると、古地図では「禰宜町」「下高畠」と書かれている辺りの住宅街に出る。 すぐ目の前に「志賀直哉旧居」と書かれた道標。
志賀直哉が1929年から1938年まで住んだ邸宅。ここで小説『万暦赤絵』や『暗夜行路 後編』を執筆したという。
書斎は2部屋あり、2階は和室、1階は洋室だ。1階の書斎は北向きの部屋で、“明るすぎると 気が散る”という要望を取り入れて造られた部屋のようだ。
元興寺
古地図では「元興寺(がんごうじ)大塔」が描かれているが、江戸時代末期に消失して現在は遺構が残るだけだ。
天保15年の元興寺大塔の地図 (和州奈良之図)
元興寺は南都七大寺のひとつで、藤原氏の氏寺である興福寺を「北寺」、そして元興寺を「南寺」と呼ぶほど栄えていた寺だそうだ。
しかし、平安時代末期には寺勢が衰え、講堂が倒壊、金堂は15世紀の土一揆で消失。残存した伽藍は「五重大塔と観音堂」(説明板地図の6番)・「小塔院」(同 8番)・「極楽坊」(同 10番)の3つの小寺に分裂。元興寺のシンボルだった五重大塔も江戸時代末期に消失し、かつて南都七大寺時代の元興寺の伽藍を引き継いでいるものは無いそうだ。
まとめるとこのようになる
・五重大塔と観音堂 → 東大寺の配下に → 江戸時代末期の1859年に消失
・小塔院 → 消滅 → 江戸時代に虚空蔵堂を新築
・極楽院 → 西大寺の配下に・旧僧坊の一部を鎌倉時代に改築 → 現在の元興寺(極楽院)
ならまち 庚申堂
かつて元興寺の境内だった場所は、いまでは古民家風の商業施設と住宅が混在した「奈良町」という観光名所になっている。
その奈良町(ならまち)の真ん中あたりに庚申堂という祠がある。
奈良市街地や大和郡山の古い町並みで見かけることがある、軒先に吊るされている猿のお守りのようなもの(青面金剛の使いの猿)のご本尊が祀られているのが、庚申堂だそうだ。
今回の奈良市街地の観光はここで終わり。 古地図上で見落とした「名所」は無さそうなので、近鉄奈良駅に向かう。
東向商店街を通り抜け、地下にある奈良駅に入ると、電車が発着している雰囲気が全く無い。プラットホームに沢山の観光客があふれているが、次発を示す列車表示は30分以上先の14時16分だ。
Twitterでは学園前の踏切で人が電車に跳ね飛ばされ、現場はブルーシートが掛けられ実況見分中とか。
改札口に戻り、ICカードの入場記録を消去してもらって、JR奈良駅に向かう。徒歩1km。結構遠い。
駅前の金券ショップで、回数券のバラ売りを1枚購入。運賃は近鉄と同じ560円だが、金券ショップで買うと520円と少しだけお得。
■ JR 快速 奈良駅 14:02発 → 久宝寺駅 14:29着
■ JR 普通 久宝寺駅 14:31発 → 難波駅 14:50着 (運賃 560円→金券ショップ520円)
JR久宝寺駅に到着した大和路快速 (ここで普通電車に乗り換え)
13時46分の近鉄の快速急行なら14時24分に難波に着いていたはずだが、JRに迂回したことで30分ほど余分に時間が掛かった。事故なので仕方ないか…
■ 地下鉄 難波駅 15:09発 → 阿波座駅 15:14着 (運賃 180円)