梅雨の中休み、珍しく快晴なので奈良へ。 国立博物館などピンポイントで奈良市中心部に行くことはあるが、今回は「小中学校の時以来」の東大寺や春日大社などの「超有名な観光スポット」をめぐってみようと思う。
■ 地下鉄 阿波座 07:12発 → 難波 07:17着 (運賃 180円)
■ 近鉄 快速急行 難波 07:20発 → 奈良 07:57着 (運賃 560円)
ゆっくり座っていくため、難波駅始発の快速急行に乗ろうと思っていたが、駅のプラットホームに1本前の快速急行が既に停車していた。 この列車は三宮発の阪神電車だが、運よく席が空いていたのでこれに乗ることに。
鶴橋駅、布施駅と大量の客が乗り込んできて、生駒駅、西大寺駅で客がほぼ入れ替わるくらいの乗降がある。 半分くらいが通学の学生。
市街地から郊外へ向かう「逆方向」の列車で、満員になるくらい客が乗っている。
興福寺
奈良駅から地上に出ると、アーケードの掛かる東向商店街。 ファストフード店や伝統のお菓子屋さんなど、観光客向けの店が並んでいる。 南北の通りなのに命名は「東向」…
100mほど南へゆくと、興福寺に続く路地がある。
興福寺は南都七大寺のうちの一つ。
日本が国家システム(律令国家)として仏教を位置付けたときの寺が「南都七大寺」で、その宗派は「南都六宗」だった。 というのが中学校レベルの歴史の知識だ。
南都六宗 = 華厳宗・法相宗・律宗・三論宗・成実宗・倶舎宗
ここ興福寺は藤原家の氏寺だったため、平安時代には全盛を誇ったといわれている。当時の寺格では、総国分寺の東大寺が圧倒的トップで、2番めに興福寺、その次に「新しい宗派」の延暦寺 … とされていた。
平安時代末期に「南都北嶺」と称される対立、藤原氏・朝廷(南都側の興福寺)と平家(北嶺側の延暦寺)の権勢争いが起こったとき、平重衡の南都焼討(1181年)で興福寺や東大寺が丸焼けにされるということになってしまった。
ということで、創建1300年とされる興福寺も、現在残っている伽藍や仏像などは鎌倉時代以降に造られたものに過ぎない。 といっても、800年くらいの歴史はあるわけだが…
商店街側の門を入ると、すぐ左手に北円堂。 興福寺の伽藍で最も古い、鎌倉時代前期に建てられた八角円堂。国宝の弥勒仏坐像や法苑林菩薩が収められているそうだ。
さて、古都をめぐるには古地図…。 ということで、古地図の案内に従って見どころを回る。
天保15年の興福寺の境内図 (和州奈良之図)
北円堂からまっすぐ興福寺の敷地中央の方向には、巨大な金堂が再建工事中。 なので、猿沢の池方向に下る。
江戸時代に書かれた和州奈良之図は、左が北・右が南なので、地図上では右へ向かう。
ゆるい坂道を下って行くと、右手に三重塔、左手の丘の上に南円堂。 興福寺の伽藍を外部から見るだけなら入場無料だ。
この三重塔も、北円堂と同じく鎌倉時代前期に建てられたもの。
三重塔から南円堂の正面に登り返す坂道の袂に、延命地蔵尊
古都っぽい(?)階段を幾段か登ると南円堂の正面に。
いかにも「江戸っぽい庇」が取り付けられている南円堂は、もちろん江戸時代に再建されたもの。この庇は「拝所」というらしい。国宝の不空羂索観音坐像などが収められているそうだ。
南円堂前から東へ。小地図では上の方向へ。 回廊跡の巨大な空き地、日光を遮るものがない広い空間。
金堂を取り囲む回廊と中門は、江戸時代の和州奈良之図でも点線で書かれていて、すでに遺跡状態だったと思われる。 そこに、柱の礎石が等間隔に並んでいる。
室町時代に再建された東金堂は、建物は国宝。内部には重要文化財の銅造薬師三尊像などが収められている。
奈良市中心部のシンボル、五重塔。室町時代に再建されたもので、国内では東寺の五重塔に次ぐ2番めの高さ50.1m。
猿沢池
興福寺の境内から南へ。階段をどんどん降りてゆく。 階段の下半分は江戸時代の地図と同じく「五十二段」と今でも呼ばれていて、本当に52段あるらしい。
その五十二段の横に「楊貴妃桜」と命名された桜が存在した場所がある。唐の皇帝玄宗と同じ名前の僧が愛でた桜がココに生えていたので、いつしか人々が楊貴妃桜と呼ぶようになったとか…
猿沢池の畔に出て振り返ると、湖畔の松林の向こうに興福寺の五重塔の「頭のてっぺん」だけが見えている。
松の木が高く育ちすぎて、五重塔のほとんどを隠してしまう勢いだ。
猿沢の池は人工池で、天平時代に造られたそうだ。
鷺池と浮見堂
飛火野を目指して、東へ向かう。春日大社 一の鳥居のところから奈良公園に入り、木陰で鹿がくつろいでいる間を歩いて行く。
天保15年の地図 (和州奈良之図)
もう一度古地図を参照する。 猿沢池から東へ、小地図では上の方向へ向かう。一の鳥居のところから奈良公園の敷地(木々が茂る林)が始まるのは、現在も同じ。
地図上にも一の鳥居と飛火野の間に2つの池が書かれているが、現在も似たような場所に荒池、鷺池と2つの池がある。どちらも猿沢池よりは大きい。
鷺池(さぎいけ)の中央には浮見堂がある。 この浮見堂は1991年に再建されたものだそうだ。
奈良公園と飛火野
鷺池の畔の林「浅茅が原園地」で、沢山の鹿がくつろいでいる。 逆に、鹿苑のある飛火野にはほとんど鹿がいない。
広い、ひろい芝生広場の飛火野で見かけた鹿は、この2頭のみ。
1908年、この大楠の樹の下で、明治天皇が陸軍の演習をご覧になったそうだ。
東大寺 南大門〜大仏殿
飛火野からまっすぐ北の東大寺へ。古地図では左へ。
道は、奈良国区立博物館の北東角、大仏前交差点より東大寺側は歩行者天国になっている。このあたりから、大量の外国人観光客を見かけるようになる。
トリップアドバイザーが発表した『外国人に人気の日本の観光スポット2018』では、東大寺は第4位の人気だそうだ。
2位 広島平和記念資料館(原爆ドーム、広島平和記念公園)/広島県広島市
3位 宮島 (厳島神社)/広島県廿日市市
4位 東大寺/奈良県奈良市
5位 新宿御苑/東京都新宿区
6位 兼六園/石川県金沢市
7位 高野山(奥之院)/和歌山県高野町
8位 金閣寺/京都府京都市
9位 箱根彫刻の森美術館/神奈川県箱根町
10位 姫路城/兵庫県姫路市
大量の外国人で「観光公害」が激しい大阪は、30位以内に1箇所も入っていない。 LCCが離発着する空港があるから、しかたなく通っているだけなのだろうか。
興福寺と同じく、ここ東大寺も平重衡の南都焼討(1181年)で丸焼けにされた。そのため、伽藍のほぼ全ては鎌倉時代以降に再建されたものばかりだ。
東大寺は江戸時代の古地図ではこのように描かれている。
天保15年の東大寺の境内図 (和州奈良之図)
講堂跡、東塔跡、西塔跡とあるように、これらは江戸時代の時点で既に廃墟になっていたようだ。
鎌倉時代前期に再建された門で、扁額の「大華厳寺」は鎌倉時代の仏教書の記述に従い、2006年に作成され掲げられたものだそうだ。
日本での華厳宗の総本山だから、伝承がなくとも想定内の名前だ。
中門と大仏殿(金堂)はともに江戸時代に再建されたものだ。
大仏殿の拝観料は600円。回廊の南西角の入場口から入場する。
盧遮那仏像を収めている建物は巨大だ。建物は幅57.5m、奥行き50.5m、高さ49.1mという巨大な木造建築。
現代建築を除いて、世界最大の残存している木造建築物だそうだ。
大仏殿(金堂)の正面には、高さ4.6mの銅製八角灯篭がある。 奈良時代に造られ、南都焼討にも耐えたものだそうだ。
遠足の小学生に大人気だ
大仏殿(金堂)の中央に盧遮那仏像(るしゃなぶつ)、その左右隣に虚空蔵菩薩像と如意輪観音菩薩像が鎮座している。
天平年間(729年-749年)に立て続けに大和の国を襲った国難、たとえば
・天然痘の流行で藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死 (723年)
・吉備真備や玄昉を重用し、藤原氏を遠ざけた朝廷に対し、太宰府で藤原広嗣が挙兵 (740年)
・畿内七道地震(734年)や天平地震(745年)などの大地震
というような国難を排するため、聖武天皇は一時的な遷都(恭仁京、難波京、紫香楽京)や仏教への帰依を行い、その一環として『盧舎那仏像の建立の詔』(743年)を出したのが、この奈良の大仏が造られるキッカケ。
盧遮那仏(大仏)は、鋳造した銅の表面に金メッキを施したものだったが、何百年も経つうちに金メッキは剥がれて、緑黒く酸化した銅の地金が出てしまっている。現在見られる盧遮那仏(大仏)は、平重衡の南都焼き討ちで一度消失した後に、鎌倉時代に再作成されたもの。高さは14.7m。 (ただし、頭部のみ戦国時代の三好・松永の戦いで破損したため、江戸時代に新造されている)
盧遮那仏は巨大な蓮華(れんげ)の上に座っているが、参拝客が近寄ることの出来る花弁の先端の部分に線刻画が残されている。
平安時代末期、戦国時代と2回の戦火をくぐり抜けた、奈良時代に造られた初代の部材がこの蓮華座だそうだ。
線画の上半分には釈迦如来と、その左右にそれぞれ11体の菩薩。下半分は26本の界線がひかれ小仏や宮殿が描かれている。
『この世は無数の世界が積み重なっていて、それぞれの世界に無数の仏国土がある』 という華厳経の世界観を示しているとされる。
大仏殿の左奥・右奥の角には広目天像と多聞天像が鎮座している。
正倉院に行くため、大仏殿を出て回廊の西側を大仏殿の裏まで回りこむ。そこはかつて講堂があったところだが、いまは一面の芝生に建物の礎石が残るだけだ。
鹿がのんびりと草を食んでいる
この春生まれたばかりの子鹿だろうか。 大人の鹿は人間の姿に驚くことはないが、さすがに子鹿は人が近くに来る前に逃げ去る。
正倉院
東大寺講堂跡の北西隣に、正倉院がある。本来は「東大寺の正倉」なのだが、現在は宮内庁の管理下にある。 見学は午前10時からなので、ちょうどその5分前に門の前に到着。 正倉院の見学は無料だが、建物を遠くから眺めるだけだ。 宝物は、国立博物館の正倉院展に観に行く必要がある。
正面幅33.1m、奥行き9.3m、高さ14m(うち床下の柱部分2.5m)という建物は、現在は倉庫としては使われていない。千年以上の間正倉で保管されてきた宝物は、コンクリート造りの西宝庫・東宝庫に移されて保管されているそうだ。
小学生の1クラスでしょうか。20人弱の生徒と、先生が2名。 私が小学生だった時は、1クラスは45人くらいで、先生は1名でした。 子供一人あたりのコストは4倍以上… そりゃあ、国の赤字は増えまくるわね