連休後半、やっと晴れの天気となったので比叡山に登る。 スキー場跡の近くにある通称「つつじヶ丘」のツツジ開花を期待していたのだが、残念ながら開花寸前でほとんど何も咲いていなかった…
大阪・中之島 〜 修学院駅
■ 京阪 中之島駅 07:28発 → 大江橋駅 07:31着 (定期券範囲内)
■ 京阪 淀屋橋駅 07:40発 → 出町柳駅 08:34着 (特急 運賃470円 … 金券ショップで360円)
連休だからか、特急電車は始発の淀屋橋駅ですでに満席。 天満橋で乗り換えていたら、座れないだろう。
■ 叡山電鉄 出町柳駅 08:45発 → 修学院駅 08:52着 (運賃 210円)
叡山電鉄も、ハイキングや登山に行くと思われる客で立ち席が出るくらいの混雑。 ただ、比叡山への登山口がある修学院駅で下車したのは10名未満だった。
修学院駅 〜 雲母坂登山口
駅前のセブンイレブンで、チキンカツ弁当(430円)を購入。 音羽川沿いに東へ1.5km歩き、雲母坂(きららざか)登山口に向かう。
■ GPSログ
・トラッキングログの元ファイルをダウンロードする場合はこちら(GPXファイル)。
比叡山南麓の山体を見ながら、砂防事業で小さな堰堤が連続して造られている音羽川の左岸を登っていく。
修学院駅より歩くこと15分、登山口の雲母橋のところに到着。
橋を渡って右岸に行けば雲母坂(きららさか)の登山口。左岸を突き進めば、砂防技術の展示・学習施設として見学コースが整備されている沈砂池や砂防堰堤をみることが出来る。
1974年に造られた沈砂池を見ながら雲母橋をわたると、『親鸞聖人御旧跡 きらら坂』 と彫られた石柱がある。
橋の袂の看板には
雲母坂は、平安時代より比叡山と都を結ぶ主要路として賑わい、都からの勅使が通ったことから勅使坂とも呼ばれました。また、法然、親鸞らの名僧をはじめ多くの人たちもこの坂を行き来しました。
比叡山の山法師が日吉神社の御輿を担いで都に強訴に押しかけたのもこの道とされ、南北朝の戦乱ではこの坂が戦場となり多くの将兵の血に染まりました。
とされる。
雲母坂登山口 〜 ケーブル比叡
音羽川の沈砂池横の管理道路から分岐した雲母坂は、修学院離宮(宮内庁)管理地の東端のフェンスに沿って、およそ300m(標高差150mほど)の急登となる。
V字型に深く侵食された狭い谷道、向こうから人が来たらすれ違いに難儀する。15分ほどで狭い谷の急登は終わり、修学院離宮(宮内庁)の敷地も終了する。ここから尾根沿いの緩やかな登り道になる。
宮内庁敷地のフェンス (尾根に出た辺りで、フェンス終了部分付近)
しばらく進むと、『水飲対陣之跡碑』がある。ここで京都一周トレイルと合流するため、その道標もある。
南北朝時代、大覚寺統の後醍醐天皇が敷いた建武の新政により、京を追われ九州に下った足利尊氏(高氏)はその後勢力を盛り返し、持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて東征する。このとき、大覚寺統側の新田義貞・楠木正成は戦に敗れ比叡山に篭った。
このとき、足利尊氏(高氏)の弟足利直義と大覚寺統側の千種忠顕が、1336年に比叡山麓西坂本水飲で戦った場所とされる石碑。
すぐに関西電力の送電線の下を横切る。 送電線の管理のため、周囲の気が伐採されていて見晴らしがよく、何人かのハイカーが休憩している。
送電線が八幡前駅の近くにある松ヶ崎変電所に向かって、一直線に山を下っている
このあたりで、標高400mを通過する。登山道の脇に『浄刹結界碑』というのが建っている。ここから先は寺領であるということを示す碑で、通常は女人禁制ということも意味していた。
この碑のすぐ脇に、ケルンのように石が積み上げられたところがある。かつて、ここには石仏があったそうだが、誰かがいたずらで引き倒して破壊してしまったのだろうか。
登山口から、ずっと広葉樹の新緑の道を進んできた。標高500mを越える辺りから杉林になる。まもなく、標高600付近の杉林の中に立つ『千種忠顕卿戦死之池碑』がある。
水飲対陣の戦で戦死した千種忠顕の戦死の地を示した巨大石碑だ。
標高700m手前で視界が開け、巨大なアンテナと、展望台「比叡ビュースポット」。
このアンテナ、右側は「京都市防災行政無線局 比叡山中継局」と建物に書かれているが、左側のは何の名称も書かれていない。前回、2015年5月に来た時に比べて、タワーに取り付けられているパラボラアンテナの数が激減している。
すぐに、ケーブル比叡駅前に到着。登山口から1時間、標高差550m。標準コースタイムが90分だから、2/3の時間で到達したことになる。