11月の無料公開日に、大阪歴史博物館を訪問した。毎日、至近の職場に通っているが、めったに入場することがない場所。古代ギリシアや古代ローマの遺跡を見にしょっちゅう地中海方面に行く割には、灯台下暗しだ…。
縄文時代・弥生時代
紀元前3世紀以前を縄文時代、紀元前3世紀から3世紀までを弥生時代といい、更にその後難波宮が造られるまでの7世紀以前のことを博物館ではそれを『古代』と呼んで展示している。
展示パネルには次のように書かれている
“上町台地の北部にあたる「難波」は、周辺で大きな地形の変化が起こる中で度々人々の活動拠点となり、数多くの遺跡が残されてきた。
その中で古墳時代中頃(5世紀)は、堀江の開削や大型倉庫群の建設など、難波が国際的な交易・交流の拠点として発展した一つの画期である。
ここでは古墳時代中頃以降、飛鳥時代(7世紀)にかけて難波宮下層の建物群や四天王寺といった重要な施設が次々と造影され、「難波宮」遷都への基盤が整えられていく。”
まあ、この解説文だけを見ると現在の大阪市辺りが“大変重要で先進的な”地域だったような書きぶりだが、実際は、中国大陸への船便の発着地点だった大阪湾に近いというだけの地理的な利点で関連施設が建てられていただけなのだと思う。
三省堂の高校日本史教科書では
“朝廷は、600年に隋に使いを派遣し、607年に遣隋使として小野妹子を送り仏教の教えを学ぶ留学生を同行させた”
“618年に唐が中国を統一すると、朝廷は引き続き中国との国交を維持するために、630年、遣唐使として犬上御田鍬を送った。”
“6世紀後半から7世紀前半にかけて、我が国の仏教文化が花開いた。この文化は、朝鮮半島から、中国の南北朝時代の高度な技術に裏打ちされた仏教文化が移入されたものだった。これを政権の所在地に因んで飛鳥文化とよんでいる。
このころ、わが国初の大寺院である飛鳥の法興寺や、聖徳太子の願いでつくられたとされる斑鳩の法隆寺、摂津の四天王寺のほか、大和や河内を中心に法起寺、百済寺など40数か寺が建立された。”
と書かれている時代だ。世界遺産を目指す仁徳天皇陵などの百舌鳥古墳群など重要な史蹟があるのに、博物館の展示は極めてあっさりしたものだった。
欧州の歴史地図の時代が…
難波宮が都(645年〜667年)であった7世紀頃のものとされる世界地図が展示されている。
7世紀の東ローマ帝国付近の地図 (『古代の難波と世界』より)
古代ローマの本家である西ローマ帝国は、ガリア人の侵入により480年にロムルス・アウグストゥルス帝が廃位され国家が消滅している。
オリエントの東ローマ帝国は、ムハンマドが統一したイスラム帝国による侵略を受け、国土がどんどん削り取られていたのが6〜7世紀頃。
一般的に、東ローマ帝国は古代ではなく中世の歴史に属するとされる。日本では、この時代も古代に分類しているようだ。
大阪歴史博物館に展示されている『7世紀頃とされる地図』は、緑・赤・紫の色分けがもう少し時代が下った8世紀頃のものだ。赤 = イスラム帝国(ウマイヤ朝)、緑 = 東ローマ帝国、紫 = フランク王国。 この時代には既に難波宮は廃墟となり、710年の平城京の完成以後の時代のものだ。
少なくとも、難波宮の存在した670年ごろにウマイヤ朝が支配を完成したのは「属州アフリカ」だったカルタゴ付近まで。その先の「属州ヌミディア」「属州マウレタニア」(現 アルジェリア、モロッコ)は東ローマ帝国とイスラム帝国が支配を争っていた時代だ。ちなみに、地図上で「チュニス」と書かれている場所は、670年頃は未だ「カルタゴ」と呼ばれていてチュニスではなかった。
もう、時代ぐちゃぐちゃ展示だ…。
難波宮
この当時、頻繁に遷都が繰り返され「難波宮」が現在の人が考える『首都』のような気合の入ったものではかっだだろう。首都が頻繁に移された経過はWikipediaの『日本の首都』に全リストが出ているので分かりやすい。
天皇の即位、あるいは重要な政治イベント、天変地異や疫病の祈祷のためにしょっちゅう首都が移された。
前期難波宮 (645年 - 655年)、後期難波宮 (661年 - 667年) の2回、ここに首都が置かれた。この時代の首都は、ほとんどが奈良県南部のどこかにあったが、極短期間、枚方市や長岡京市、あるいは大阪市(難波宮)などに一時的に首都が置かれることがあった程度だ。
そんな頻繁な引っ越しに対応するため、宮城を構成する建物は可搬式とされて、基壇の石・柱・梁・屋根瓦や板材はすべて解体されて移築されたそうだ。
だから、この時代の宮城を発掘しても、割れた瓦や木片などの廃材が出てくるくらいで、ほとんど何も残っていなかったそうだ。
いまなら、廃棄物リサイクルを徹底したエコな政権ということになるだろうか…
Wikipediaによれば “この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。” とされいてる。
“回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。 その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿。 朝堂院の広さは南北262.8メートル、東西233.6メートルである。”
中央の大極殿と南側の朝堂院は“中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿”という当時の最新様式。北側の内裏は伝統的な“掘立柱建物で、檜皮葺屋根”であったそうだ
再利用できる柱・瓦・陶器類・調度品などは全て移築されたので、発掘されるのはリサイクル不可能だった廃材だけなので、出てくる遺物もこの程度…
いきなり安土桃山時代頃へ
太平記(南北朝時代)で摂津国、和泉国は頻繁に登場する歴史の表舞台だが、奈良時代から室町時代まではヒトコトも触れられることもなくすっ飛ばされ…
江戸時代末期の浮世絵師 一珠斎国員などが描いた錦絵『浪花百景』でなんとなく表現。
逆櫓の松 (平清盛の逸話)
野田藤 (室町時代末期から江戸時代の藤の名所)
ジオラマで表現する安土桃山時代から江戸時代
16世紀の掘っ立て小屋が、たった200年間で下の写真のような現代的な住宅街にかわります。江戸時代が、いかに安定し市民生活(庶民文化)が発展したが分かる展示だと思います。
2階建ての住宅には、ベランダが備え付けられています。ほんの20〜30年前まで、こんな感じの住宅はどこにでもありました。
超精密につくられた住宅街のミニチュアモデルです。ただし、水面の表現能力は極めてチープで、蔵屋敷のミニチュアモデルがかわいそうなくらいだ…
豐臣秀吉を完全に無視し、安土桃山時代をコケにする
難波宮のような「天皇のいっときの心の迷い」の遷都で趣味的に使われた仮設建造物を延々と解説している割に、天下統一を成し遂げ中国大陸に向けて朝鮮半島まで進軍した豐臣秀吉の「大坂」をほとんどスルーしています。大阪(大坂)が、歴史的にただ一度だけ日本の権力と軍事力の中心であった時代をほとんど語らないのは、不思議なことです。
大阪城天守閣の模型すらありません。もちろん、大坂の陣の解説もありません…
信長、秀吉に歯向かい、宗教の政治介入が排除された「石山合戦」で焼き払われた石山本願寺の精密模型が鎮座していました。
大阪城の模型を置かずに、石山本願寺の模型。 この歴史をねじ曲げたような展示は何なのでしょうか…
中之島蔵屋敷跡の遺物
以前、発掘調査説明会を聞きに行った中之島蔵屋敷跡の遺物が展示されていた。
明治期以降の展示
大正から昭和初期の、近代文明が普及してきた当時の繁華街の街並みを実物大模型の展示が、この後延々と続きます。 16世紀から18世紀の精密模型が「住宅街」を対象としていたのなら、昭和初期の模型も住宅街を対象とすべきなのに、ここだけ繁華街というのは支離滅裂です。
日本が名実ともに首都であった秀吉の時代をすっ飛ばして、東京に首都を持って行かれて一地方都市だった時代を巨大ジオラマにして何の意味があるのかなぁ…と。
大大阪と「昔は良かった」的な言い方をする歴史家も居るけれども、この近代化の時代に歪んだ産業構造と文化を作ってしまったことが、現在の「身の程をわきまえなず、東京をライバル視して自滅し、冷静な議論すら出来ない」大阪という街を作ってしまった反省すべき過去だと思う。
感想…
発掘された土器などの遺物、過去の街並みの精密模型は力作だと思うしわかりやすかった。ただし、取り上げている事象が、歴史の全体的な流れを感じることが出来ない、ほんの一部分を趣味的に切り取ったものとなっているのは残念だ。
全体的な大阪の歴史の流れをちゃんと理解できるようにしてほしいものだ。 大阪の博物館は、ピースおおさかや人権博物館の例を引くまでもなく、学芸員の専門分野を展示する施設だと勘違いしているのじゃないだろうか。 学芸員が展示をプロデュースするのではなく、大阪に利害を持たない全体を見渡せる歴史学者や評論家などが責任を持って展示内容を取捨選択したほうが良いと思う。