何処へ行っても混雑していて、他の人間の姿が目に入らないような場所は無さそうだ。世間が休みのときは、自宅近辺で過ごすに限る。
ということで、ゴールデンウィークはほぼ自宅で読書。
- ジェフリー・ディーヴァー著 ハンティング・タイム
- 半藤一利著 もう一つの「幕末史」
- 朝井まかて著 秘密の花園
最後の本は、残り150ページくらいなので連休明けの火曜日には読み終わりそう。
本といえば、図書館で借りた分厚い本を1冊スキャンしてPDF化した。人間ドックや健康診断の結果を読むときに、素人向けじゃない情報が得られる貴重な情報源だと思う。
- 医学書院 臨床検査データブック 2023-2024 (1139ページ)
淀川河川敷をサイクリング(5月3日)
国道2号を道なりに走り、野田阪神駅を越えて淀川大橋へ。
阪神高速道路の工事が堤防に沿って行われているので、橋の南半分が1車線規制になっている。
橋の上から淀川河川敷を見ると、堤防がコンクリートブロックでガッチリと固められているように見える。淀川大橋から下流側は、東洋ガラスの工場跡と高速道路のトンネルを含めて地盤を嵩上げして老江地区「高規格堤防」というものにアップグレードするらしい。
淀川大橋の少し上流、河川敷に降りるスロープの入口に、河口からの距離を示す「R4.9」の大きなペイントがある。おおよその起点は、阪神高速湾岸線のあたり。
この距離は、国土交通省の「淀川縦断面図」に掲載されているものだ。
堤防の大阪港水面からの高さは、淀川大橋のところでOP+8.1m、折り返し地点の豊里大橋ではOP+11.0mとなっている。約10km走って、たった3mしか登らない平坦な道だ。
スロープを降りて河川敷の遊歩道へ。きょうは休日だが、河川敷の草野球場にほとんど人影がない。普段の週末なら子供野球チームが試合をやっていて、きょうのような「無人」状態は見たことがない。
河川敷の草むらには、いろいろな花が咲き乱れている。
まず始めに、紫色の花を咲かせているナヨクサフジ。カラスノエンドウに似ている葉や茎で、マメ科の飼料植物。
公園などにもよく咲いているシロツメクサ。これもマメ科の飼料植物。
白いフジのような花を咲かせているニセアカシア。フジのようなつる植物ではなく、これ自体が高木となるマメ科の植物。
シロツメクサは1cm〜2cmの白い花を咲かせているが、こちらは3mm〜5mmの黄色い花を咲かせるクスダマツメクサ。
菅原城北大橋を渡った対岸に、菖蒲園のある城北公園。
豊里大橋の下まで行って引き返す。
ママチャリのハンドルを再塗装 (5月4日)
鉄に黒色の塗装がなされていたハンドルが、一部で茶色く錆びてきたので、100円均一ダイソーのスプレー塗料(黒つや有り)で塗装した。
ハンドル塗装のため、塗装が不要な場所を新聞紙と養生テープで養生する
安治川沿い、中央市場から先へ(5月6日)
西九条駅の少し先にある安売りスーパー「ラ・ムー」の横に六軒家川水門が見えている。
この水門は、昭和44年に造られた六軒家川の河口にある。この川は大開のコーナン付近で淀川に接続していたが、上流側の半分の正蓮寺川が埋め立てられて、すでに長さ1.1kmの池に過ぎない。10年くらい先に起きると言われている南海地震の津波でおそらく破壊され、洪水の原因となるだけなので、すべて埋め立てるのが安全策だと思うのだがどうなんだろう...。
安治川、六軒家川・正蓮寺川の明治35年時点の地図(上流半分の広くなっている部分が埋め立てられて、コーナンや下水処理場が建てられた)
安治川沿いの道はここで行き止まりで、六軒家川を渡りUSJのある半島の方へ続いている。
安治川を渡る橋は、自宅近く(中之島の西端)にある船津橋が最下流のもので、その先には西九条のエレベーター付き歩行者トンネルがある。「ラ・ムー」より先に渡河ポイントは無い。
対岸に行きたければ、国道43号の高架道路を大きく迂回して通るか、天保山の無料渡船だけが選択肢のようだ。
六軒家川水門のすぐ向こうに見えている、アーチ状の安治川水門を間近に見るためには、少し戻って対岸に渡るしか無いか...
六軒家川水門の写真を撮影した橋の南詰めに、大阪鉄工所跡・日立造船創業の地の石碑がある。
大阪鉄工所跡 石碑
大阪における洋式造船業発展の基礎は 明治12年 親日英人E・H・ハンターによってここに築かれ 在ること20年ののち桜島に移った
日立造船株式会社 発祥之地 石碑
英人エドワーズ・H・ハンター氏は、近代日本の黎明期に造船業の発展を予期し、明治12年ここ西成郡六軒家新田松ヶ鼻に当社の前身である大阪鉄工所を創始し、洋式造船鉄鋼業の経営に着手して、明治14年(1881)4月1日創業の式をあげた。
本年創業100周年を記念してこの碑を建て、創業当時の姿を銅板に刻んで、永く後世に伝える
昭和56年4月
日立造船株式会社 取締役会長 永田敬生