来週の水曜(4月13日)より「桜の通り抜け」がコロナ禍の完全予約制で行われるが、桜並木の3分の1ほどは造幣博物館に入場することでフライングで見学できる。
通り抜け期間より遥かに客数が少なく(ほとんど客が居らず)、サクラが撮影し放題...
国道2号線に面した正門から、9時ちょうどに入場。 正門前に行列したのは私も含めて3人だけ。(私は3分前に正門前に着いたので、並んだという感覚すら無い...)
「桜の通り抜け」とは逆方向に、(建物配置図でピンク色に着色した)大川沿いの構内道路を歩く。
笹賀鴛鴦桜 は、" 原木は長野県松本市笹賀地区。葉や花の特徴から、大島桜にオシドリザクラが交雑したものと推定され、花は淡紅色で、花弁数は50~60枚です。 "
正門前に鎮座する巨大な建物は、1929年建築の庁舎工場。3階建のように見えるが、一部は5階建に増築された部分があるらしい。(独立行政法人の整理合理化案より)
庁舎工場(1929年建築 延35,557m^2)と大川沿いの桜並木
正門から大川沿いに回り込む角に咲いているのは紅手毬
しばらく歩いていくと、造幣局創業時にウォートルスが設計し1871年に造られた旧正門がある。
旧正門前を過ぎ、さらに庁舎工場の横を南に行くと、造幣博物館が見えてくる。
造幣博物館
展示室は2階と3階で、2階展示室の最初には創業関係者のレリーフが並んでいる。
由利公正 ... 新貨幣の製造準備を指揮
井上馨 ... 造幣局の建設を指揮
T・J・ウォートルス ... 造幣局建設を設計監督
大隈重信 ... 近代的な通貨制度を建議
五代友厚 ... 造幣機械の輸入に尽力
トーマス・グラバー ... 造幣局の創業に貢献
伊藤博文 ... 金本位制を提案
『造幣局創業に関わった著名人のご紹介』より転記
造幣局の操業開始時、市場で硫酸やソーダ類を購入できなかったため、造幣局内でこれらの薬品を作っていたというのが、ソーダ製造施設の模型。
硫酸ナトリウム Na2SO4、炭酸ナトリウム Na2CO3 製造施設の模型と硫酸銅 CuSO4の巨大結晶
硫酸銅は、石膏を彫って作った原版の表面に銅の薄い層を作るときに使われた(電気分解して、銅を析出させた)。
金・銀の分離生成に硫酸を使っていたのは想像できるが、なんで硫酸ナトリウム(硫酸ソーダ)や炭酸ナトリウム(炭酸ソーダ)が硬貨の製造に必要だったのだろう...
また、質量を高精度に量るためのキログラム原器(黄銅製)やグラム原器(プラチナ製)も必要不可欠だった。
日本で通貨が発行されたのは、奈良時代初期の708年。唐の貨幣に習った「和同開珎」が鋳造されたのが始まり。それから200年あまり、12回の改鋳を重ね、例のごとくどんどん質が劣化していった。最後に発行されたのは乾元大宝で、958年のことだ。
ただし、これらの貨幣はほとんど流通せず、世の中は物々交換が主だったらしい。
皇朝十二銭 (奈良時代から平安時代にかけて発行された日本初の通貨と言われている。1枚 = 1文)
平安時代末期の11世紀には、太宰府で宋銭が用いられるようになり、徐々に全国に広まっていく。
中世日本の貨幣は、中国で発行された渡来銭が主に使われていたそうで、江戸幕府は国内で鋳造した寛永通宝以外は禁止しようとしたが、できなかったといわれる。
結局、明治になり「円」が導入されるまで、平安時代末期から500年余りにわたって外国通貨がそのまま国内で通用していたことになる。
江戸期の通貨交換単位は
・1両(小判1枚) = 4分
・1分(1分銀 or 1分金) = 4朱
・1朱(1朱銀 or 1朱金) = 625文(寛永通宝 645枚)
明治になり、1両 = 1円 として、新円通貨が発行された。