夜行フェリーで高松市へ行き、源平合戦の一つ「屋島の戦い」の舞台周辺を観に行った。
・後編 『高松市 屋島・八栗の旅 : その2 古戦場・八栗』 もあります
夜行フェリーで大阪から高松へ
今回も神戸三宮から、ジャンボフェリーの夜行便に乗ることにする。 平日で混雑はしないと思われるので、23時過ぎのフェリーターミナル到着を目指し、のんびりと自宅を出発する。
■ 阪神電車 普通 野田 22:14発 → 尼崎 22:24着
■ 阪神電車 特急 尼崎 22:32発 → 神戸三宮 22:55着 (運賃300円)
普通電車、特急電車ともに立ち席が少し出るくらい混雑ぐあいだ。たまたま私が立っていた前の席の人が下車してくれたため、幸運にも座ることが出来た。
こんな遅い時間帯で、座れないような電車で毎日通勤するのは大変だろう。
三宮駅で下車し、店が閉まってほぼ無人の地下街を歩き、神戸市役所の前で地上に出る。
市役所前から、旧生田川に沿って造られたフラワーロード(税関線)を歩く。報道では、2017年に歩道のライトアップ 「光のミュージアム」 が、阪神高速より南の倉庫街まで延伸されたようだ。
去年までは神戸税関前から三宮フェリーターミナルまでは、薄暗く少し怖い道だった。今回は新たにライトアップされていたり、コンビニができていたりして雰囲気の「好転」に驚いた。
22時15分ごろ、三宮フェリーターミナルに着く。
1階の切符売り場で、『 瀬戸内クルーズ & バス セット券 』 を購入。 この切符で、フェリーと高速バスを1回ずつ乗車できる。 価格は4,300円。 夜行便のフェリーに乗る場合は、深夜料金の券 300円が必要なので、合計4,600円となる。
フェリーの往復券が3,390円なので、910円余分に払うと高速バスに乗れるということになる。バスは大阪まで料金が変わらないので、阪神電車の300円を引くと610円だけアップグレード料金を払うと言う計算だ。
0時に到着するはずのフェリーは、0時になってもまだ第三突堤に接岸していない。AISで確認できる船の現在位置は、まだ和田岬の少し沖あたりだ。フェリーは15分ほど遅れて入港した。
三宮フェリーターミナルに接岸したりつりん2号
「徒歩客」で乗っていた人たちが下船してくる。 その数、たった5名。 このフェリーの利用者は殆どが「コンテナ貨物」なのだろう。
3月26日の報道 『カーフェリー復権なるか 「休息できる」トラックで盛況 高速道路からの転換加速』 によれば、
「当社は明石海峡大橋が開通する20年前から、コンテナとシャーシ(コンテナを載せる車体)の『無人航送』に注力しており、それが近年伸びてきています。国際貨物が集まる神戸港へ、当社がコンテナを取りに行き、フェリーで高松へと運び、そこでさらに当社のトレーラーヘッドにつないで四国各地の荷主へと輸送、あるいは同様に四国から神戸へと輸送するサービスです。神戸港から四国へと陸路でコンテナを運んでいた事業者がドライバー不足になるなかで、当社にお任せいただく機会が増えています」(ジャンボフェリー)
ジャンボフェリーによると、トラックが来るのを「待つ」のではなく、自分たちで荷物を「取りに行く」姿勢で輸送量を確保しているといいます。「四国は国際貨物が集積される大きな港がなく、多くの貨物がまず神戸に集められてから四国へと運ばれる点も、神戸~高松という中距離航路を活かせるポイントです。
0時45分すぎ、乗船開始。待合室で船を待っていた20〜30名くらいが乗船する。
3階のカーペットの部屋の「いつもの場所」を確保。 コンセントでスマホを充電状態にして、すぐに爆睡。
■ ジャンボフェリー 神戸三宮 01:00ごろ → 高松東 05:30 (周遊運賃 4,600円)
4時半ごろ目覚める。
5時30分ごろ、時刻表より15分遅れで高松東港に到着。 無料のシャトルバスに乗り、高松駅前へ。
■ シャトルバス 高松東港 05:40発 → 高松駅前 05:40着 (無料)
GPSログ
GPSログの生データ 20180420-tracklog.gpxをダウンロードする 。
高松市街地で、うどん朝食
5時頃からオープンしている高松駅前のセルフうどん店 「味庄」 へ。 かけうどん小 190円、 とり天 100円 を食べる。
早朝から美味しいうどんの朝食が食べられるのはありがたい。
高速バスターミナルのトイレを拝借してから、レンタルサイクルの事務所が開く7時までの間、玉藻公園(高松城)の外周を歩く。
城内から沖合に泊まる船に向かうための小舟が出る、水手御門を守るための櫓だそうだ。
高松駅前のビル街 サンポート高松の海側はフェリーターミナルで、小豆島や直島などへのフェリーが発着している。 きれいに整備された岸壁沿いに、カラフルな円柱のモニュメントがある。
大巻伸嗣作 Liminal Air -core- という作品だそうだ。 モニュメント背後のフェリーは、6時50分発の小豆島行き第1こくさい丸。
7時少し前、高松駅前広場の地下にある市営駐輪場へ。 レンタルサイクルの利用証(無料)を作る。 この利用証があれば、市内中心部の数カ所にある無人の駐輪機で自転車を借りることが出来る。
広大な駐輪場の1列、100台以上のレンタルサイクルが並んでいる。 これだけの数があれば、出払ってしまって借りられないということもないだろう
自転車に乗り、通勤客が大量に下車してくる琴電の築港駅前から南へ、中央通りを快走する。
早朝なので自転車が走っても咎められない丸亀町のアーケードを走りぬけ、ことでん瓦町駅の北側をかすめて、高松駅から約2.2km南東にある「手打十段うどんバカ一代」に到着。
かけ小 210円、玉子天ぷら 100円を食べる。 朝食うどん 2食め。
麺や出汁は店ごとに手作りなので、味が微妙に違って食べ比べるのもおもしろい
高松市街地から高松城(喜岡城)天守址へ
高松市の東部にある屋島をめざし、国道11号線(志度街道)を東へ。
国道11号線 (高松市街中心部から東へ数キロメートルの場所)
かなりの数の自転車通勤の人たちが、高松市街地へ目指して走っている。 私はその逆方向なので、信号が変わる間隔でまとまってやってくる自転車群を避けながら走らないといけない。
詰田川に掛かるR11号線の橋から見た屋島の全景
南北4km、高さ300m弱の巨大な岩山の屋島がだんだんと近づいてくる。 標高292mの南嶺山頂付近には屋島城址と屋島寺がある。
麓からは、木々に覆われた山頂に建物があるようには見えない。屋島に登る前、国道11号線に近い場所にある高松城址を観に行く。
高松駅前の高松城(玉藻城)は、安土桃山時代(16世紀)に造られた城で、屋島の南にある高松城(喜岡城)は鎌倉時代末期に造られた城。
看板には “ 鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城を構えていましたが、建武2年(1335年)11月26日、足利尊氏の臣、細川定禅らの軍勢に攻められ、老父一族14人と郎党三十余人討死し落城しました ” と書かれている。 Wikipediaによれば、“ 高松城(玉藻城)はこの「高松」を引き継いだものであり、この一帯は現・高松市の地名のルーツ ” だという。
ことでん屋島駅に向かう。駅前のバス停から出るシャトルバスは1時間に1本。駅の駐輪場(無料)に自転車を止めバスを待つ。
屋島駅のコンコースには、この駅舎が近代化遺産である旨の認定証が掲示されている。 それによれば、“ 駅舎は1929年に屋島登山鉄道の乗換駅として開業した ” とある。
その屋島登山鉄道(屋島ケーブル)は、2004年に廃止されたので、この駅は乗換駅としては最早機能していない。
屋島山上の屋島寺・屋島城址
バスがやってきた。数人の乗客が既に乗っている。ことでん屋島駅から乗車したのは4名ほど。うち2名はお遍路さん。
■ ことでんバス 屋島駅前 08:45発 → 屋島山上 08:52着 (運賃100円)
バスは駅を出るとすぐに急な坂道を登り出す。去年まで有料道路だった屋島ドライブウェイを登っていく。
無料化と言っても、通行料金630円が無料になった代わりに、山上駐車場が無料から300円に有料化したので、「タダ」ではない。 道路を維持管理していた「琴電の子会社」の負担が軽くなり、市道として引き取った高松市が市民の税金で道路補修をし続けなくてはならないだけだ。
屋島山上のバス停を降りると、すぐ目の前が屋島寺だ。
Wikipediaによれば、“ 屋島寺は四国八十八箇所霊場の第八十四番札所で、鑑真が中国から奈良に向かう途上で当地を訪れて開創したのが起源。すでに廃城となっていた古代山城の屋嶋城の跡地に伽藍群が建てられていて、一部の国有林を除いて屋島のほぼ全ては屋島寺の寺有地 ” だそうだ。
駐車場(バス停)側の入り口は、真新しい東大門。 かつてケーブルカーが運行していた頃の参詣道は、それ以前からある登山道と合流して南側の入り口である仁王門に達している。本来は仁王門がお寺の正面なのだろう。
手前から大典記念石塔、鐘楼、本堂と並んで見えている。
本堂は鎌倉時代末期に建てられ、1957年に解体補修されているそうだ。
看板には “ その昔、弘法大師さんが四国八十八箇所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ蓑笠を着た老人に山上まで案内されたという。のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。 屋島の太三郎狸は佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と友に日本三名狸に称せられています ” と記されている。
仁王門側にある四天門を出て西に進んでいくと、営業しているのか居ないのか分からないくらい寂れた門前町の土産物屋が並んでいる。 そこを抜けると霊巌(れいがん)展望台という、高松市外を眺められる絶壁の上に出る。
左から女木島・男木島・豊島。
屋島は岩山で周囲が切れ落ちているので、山頂からの展望が開けている。 夜景もさぞ美しいのだろうが、残念ながらシャトルバスの最終便は17時半だ。
屋島寺の境内を横切り、こんどは山頂の東側に向かう。
屋島寺 東大門を出たすぐ前に、血の池と呼ばれている瑠璃宝の池がある。
看板には “ 弘法大師が「遍照金剛、三蜜行所、当都率天、内院管門」と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。ところが、竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります ” とされていて、さらに “ 源平合戦のとき壇ノ浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり血の池とも呼ばれる ” ともされている。
壇ノ浦って山口県のほうのことですか…。 と、国土地理院地図で調べると、屋島のちょうど東側に壇ノ浦という地名があります。
瑠璃宝の池を通り過ぎ東へ。廃墟のビルが建っている。「甚五郎」という旅館の廃墟だ。
すぐ脇の広大な駐車場は、舗装が補修されていたが、この廃墟旅館は撤去せずに放置プレイですか…
Google検索を総合すると、“ 1960年に開業、2002年に廃業した客室数51室の屋島山上で最大の宿泊施設 ” だったそうだ。 岩壁の上に建ち、周囲から廃墟の建物が見えてしまうのに、解体資金がないから放置とは困ったものだ。
これから衰退する日本の未来は、如何に美しく撤退戦をやり切るかだ。ここを見てると、国立公園という規制が厳しい場所でさえ、廃墟の撤去費用を捻出できない貧しい国になってしまっている。
甚五郎前から五剣山方向を眺めると、眼下には相引川と源平合戦の舞台が一望できる。
屋島を下りたら、次はこの解説図にある古戦場を巡る。 甚五郎の廃墟から岩壁沿いの道を少し北へ行くと、談古嶺という展望の開けた場所に出る。看板には “ 山上三大展望台のひとつ。 明治30年に村雲尼が登山の際、源平古戦場の史談を聞き源氏の武士や平家公達たちを偲び、談古嶺と命名 ” したとされる。
はるか向こうに小豆島が見える。
園路を南へ。屋島最高峰の南嶺(292m)は林の中でどのように近づくのかわからない。
山頂付近を通り過ぎ、屋島城址の唯一の残存物と思われる城門跡を観に行く。
立派な門が高松市街地を望む岩壁に造られている。 近づいてみると、新しい石積み。あまりにも復元し過ぎだ。発掘された石積みは、薄いコンクリートで覆われた凸凹の部分の下にあるのだろう。 本来なら、そちらをガラス張りなどで保護して展示すればいいのに…
この門を通り抜けると、登山口に向かう山道が続いている。 人の声が下の方からするので、徒歩で登ってくる人もいるのだろう。 標高300mくらいなので、30分もあれば下山できるかもしれないが、今回は歴史探訪の旅行なので安易にバスで降りよう…
屋島山上でちょうど1時間過ごし、シャトルバスに乗車。
■ ことでんバス 屋島山上 10:05発 → 屋島駅前 10:12着 (運賃100円)
屋島ケーブルの廃墟探訪と屋島神社
ことでん屋島駅に戻ってきた。駅前から屋島を見上げると、ケーブルカーの軌道がまっすぐ山頂に延びているのが分かる。 廃線から10年以上経っているのに、軌道のコンクリートが撤去されていないので、なかなか樹木が再生できないのだろう。
旧参道の急坂を自転車でふらふらと登って行くと、屋島ケーブルの登山口駅がある。駅前にはかつての登山口を偲ばせる旅館があり、参拝客が通らなくなった今でも営業している。
1950年製造のケーブルカー2両が、登山口に引き下ろされて放置されている。
ケーブル登山口駅のすぐ東側に、ひっそりと屋島神社に続く石段がある。かつては、屋島参詣の時に屋島神社へお参りする人も多かったのだろう。
社務所付近から本殿方向を見上げると、屋島南嶺付近がはっきりと見える。 神社の境内は、ツツジが満開だ。
神門の横に看板があり社伝が書かれている。“ 屋島神社は1651年 初代高松藩主松平頼重公が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し、崇敬したのにはじまる。 1804年、当時の高松藩主第8代松平頼儀公は、風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手し、1815年に完成した。その後、明治4年には冠獄神社と改め、明治7年に屋島神社と改称。昭和48年2月不慮の火災にあい、本殿、拝殿等を全焼したが、辛うじて神門は無事であった ” 。
・後編 『高松市 屋島・八栗の旅 : その2 古戦場・八栗』 に続く