大阪城天守閣のすぐ横に建てられている、旧帝国陸軍の第四師団司令部庁舎が一般公開された。
エントランス部には、来訪者がアンケートに書きこむテーブルが置かれている。
独特のデザインの照明が吊り下がっている
旧大阪市博物館時代の「ここから先は 事務室」という掲示が貼られている。館内案内図によれば、図書室・学芸課事務室・庶務課事務室・館長室があったようだ。
階段の側壁の紋章は、何の紋章なんでしょうか…
チラリと見える部屋の中には、博物館時代の廃棄物が放置されているようです。何で、役所はゴミを捨てるということが出来ないのでしょうかね…。
博物館時代のタイムカプセル展示の残骸が放置されています。
排水が悪いのか、屋上は深さ10cm位の水が溜まっています。ここから見る天守閣も、格別です。
第四師団司令部横の「大阪城公園内に残る戦争の傷あと」案内板"
これぞ、共産主義者の公務員が作った問題作ですな。文面は
先の戦争において我が国は、アジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れてはなりません。大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
ここ、大阪城公園も幾多の空襲により、1トン爆弾による大阪城天守閣の石垣のずれ(天守閣東北隅)や機銃掃射による石垣の弾痕のあと(天守閣の北・山里曲輪付近の石垣)をはじめ、空襲と思われる石垣のずれなど数多くの戦争の傷あとを残しています。
当時、公園内には軍事施設が多数あり、その中でも、第四師団司令部として使われた庁舎(現大阪市立博物館)は、軍事施設として大阪市内で現存している最も規模の大きな建物です。
また、公園東側一帯に広がっていた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、面積1.18平方キロの我が国最大規模の兵器工場であり、戦争末期には大阪本廠を含めた全工場で一般行員のほかに動員学徒・女子挺身隊・一般徴用工員など64,000人が働いていました。その中には、当時の植民地支配の下で強制連行などにより集められた1,300人以上と言われる朝鮮青年も含まれていました。
大阪陸軍造兵廠は、1945年(昭和20年)8月14日の激烈な爆撃により壊滅し、今では科学分析場として利用された施設(元自衛隊大阪地方連絡部)など一部を残すのみとなっており、本館があった場所には多目的利用ができるホールとして「大阪城ホール」が建ち、診療所があった場所には、大阪府・大阪市が共同で世界の平和と繁栄に積極的に貢献する施設として設立した「大阪国際平和センター(ピースおおさか)」があります。
戦後50周年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。
1996年(平成8年)3月
大阪府/大阪市
のようになっています。
日本が大嫌いという個人的主義思想が入りすぎでしょう。 特に、当時は「併合」されて日本の一部であった朝鮮出身の労働者を「わざわざ分けて記述」するのは、特定の偏った思想でしょう。反例を上げるなら、鎌倉幕府が「併合」を完了した蝦夷(東北地方)や、江戸幕府が19世紀に直轄領化した蝦夷地(北海道)を分けて書いていないのが、偏った思想を示していると思います。こういうツッコミどころ満載の記述を、日本の役所が公式に行うことは由々しきことです。
(たとえば、「この建物は、栄光ある我が大日本帝国陸軍の第四師団の総司令部として建造された。第四師団は日露戦争では奉天会戦等でロシア軍に大打撃を与え、第二次世界大戦においてはバターン半島攻略作戦でしぶとく抵抗する米軍を撃破する功績を得た。しかしながら、連合軍の卑劣なる作戦により帝国軍は大打撃を受けると共に、国際法違反の無差別爆撃で大阪城内にあった大東亜最大の造兵廠であった大阪造兵廠も壊滅的打撃を受けた。戦後、この建物は大阪市立博物館として我が帝国軍の栄光を語り継いできた。」とでも書かれたら、一部の人は耐え難い精神的被害を受けるわけなので、論評や感情、批評を行わないで物を書く癖をつけたほうがいいと思う)
先進国では何処の国でも、過去の軍事施設を展示しているところでは「淡々と」説明を加えているのに、なぜ日本人はこれほどまで腐っているのかねぇ…。
たとえば、こういうふうに淡々と歴史的事実を「論評なしに」書けば、あらゆる立場の人に読んでもらえる資料になると思うんだけど…
この建物は大日本帝国陸軍第四師団司令部本庁舎として1931年に建造された。第四師団は1871年に創設された東京と大阪に置かれた2つの鎮台のうちのひとつ、大阪鎮台が基となり、1888年に師団に改編されたものである。この本庁舎と同時期に復興大阪城天守閣も建造されている。 第四師団は日露戦争では奉天会戦などに参戦しロシア軍と戦い、第二次世界大戦では第2次バターン半島攻略作戦などに参戦した。
1940年、この建物は中部軍管区司令部となり、第四師団司令部は現在の豊國神社の位置に移転した。 第二次世界大戦末期、現在の大阪城公園は大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)を始めとして帝国軍施設がそのほとんどを占めていた。1945年8月の米軍による空襲で、陸軍造兵廠は壊滅的損害を受け、城郭も石垣の一部が崩落する等の被害を受けたが、この旧第四師団司令部や旧化学分析場などごく僅かの建物は破壊をまぬがれた。
戦後、大日本帝国陸軍が解体され連合軍による占領を経て、大阪府警本部や大阪市立博物館として使用されたが、2001年に市立博物館が閉館・移転後は建物は休眠状態となっている。
竣工:1931年
設計:第四師団経理部、施工:清水組(現 清水建設)、施工費:80円
構造:鉄筋コンクリート構造(RC)造、地下1階・地上3階建
建築面積:○○m^2、床面積:○○m^2、屋上高さ:約○○m
独裁者を自認する某知事が、教育委員会を「解体する」と言っていた気分が分からなくもない (笑
■ 当日、館内で配布されていたパンフレット
最近のお役所は、共産主義者を排除したのか、かなりまともな「中立的で実利的な」文書が作れるようですね。当日配布されていたパンフレットは、推測や思想をなるべく抜いた文章になっていました。