https://blog.goo.ne.jp/palehorse5266/e/9581d3f698d5ff12ec3b5b472efbd0c3 あの大災害の日の記憶 2013-07-12 22:21:12 | 神戸布引谷での出来事 46年前の7月9日、朝、まだ布引谷に雨は降っていなかった。 その年、ワタクシは中学3年生。布引谷・市ケ原には他に中3が4人いた。 我が山の家から200m程上流の茶店に女子が1人、更に300m程上流の、大きな茶店がある村の中心地とも言える所に男子が1人。 その中心地から布引谷の支流を200m程遡った所に男子がもう2人。そこには5年程前に出来たゴルフ場の従業員家族が住んでいた。オトナ達はそのエリアを“飯場”と呼んでいた。 当時、市ケ原には昔からの常住が20軒弱、50人以上いたと思う。常時営業の茶店も4軒あった。元町の百貨店の別荘“山の家”もあった。 “別荘扱い”は他にもあったが、どの位の規模だったのかは判らない。また“飯場”には独身者もいたと思うが、細かいコトは昔からの住人も知らなかったと思う。 そして、地蔵盆のお祭もあって、お供えの菓子を貰ったし、歳末の見廻りもあり、ワタクシも星空の下、「火の用ぉ心」と言って練り歩いた。 いずれにせよ、そこそこの集落で、駐在所もちゃんとあった。 ここから熊内の幼稚園へ一緒に通った仲間の一人は、先代駐在サンの息子だった。 その7月9日は日曜日、午後は“ベツベン”へ行く予定だった。 “ベツベン”とは学校とは別の勉強、当時は塾をそう呼んでいた。休みの日も1時間弱歩いてふもとにある塾に行かないといけない。 今思うと、“ベツベン”の効果はあまりなかったと思う。単に親達の雰囲気だったと思う。 ワタクシの成績は年々落ちていて、担当教諭はその都度、「知能指数はエエのになぁ」と首をかしげていた。学校の成績とは、要は集中力とヤル気なのだ。 その日もヤル気など全くなく、朝から自転車で遊んでいた。 その自転車は、前のギャが2枚、後が4枚の8段変速。それで友達とよくあっちこっち走っていた。 行きはふもとまで、通学路:ハイキングコースとは別の車道:舗装路を駆け降り、友達と合流、市街地を登ったり降りたり、旧道の有馬街道を箕谷まで行った事もあった。 そして友達と別れた後、熊内から超激坂を漕いで登る。そうしないと家には帰れない。しかし、中学生は元気だった。 家から町方向へ300m程走ると、長い登りになりゴルフ場入口がある峠まで約1km。その先は超激坂、下ってしまうと戻りが大変。 山方向へは大した登りなく“砂止め”まで約1km。その先は完璧な登山道、自転車では走れない。 よって、フツーにチョコッと走る時は、登りの少ない山方向へ“砂止め”まで行く事にしていた。 梅雨の終わりの曇り空、大きな茶店まで車1台が通れる未舗装路を走る。早朝登山の人がどの程度歩いていたのかは記憶ないが、極フツーの穏やかな日曜の朝だった事は覚えている。 そして今でもハッキリ覚えているのは、駐在所の前で当時の駐在サンが、南東方向にある世継山のテッペンを見上げている姿だった。 世継山はちょっとした独立峰の形状をしていて、その南側の谷から北方向、稲妻坂〜天狗道の尾根に繋がる稜線に沿ってゴルフ場は出来ていた。今、神戸布引ハーブ園があるところ全てがゴルフ場だったのだ。 北面の頂上直下にも木々を切り倒し、斜面を削って作ったグリーンがあったらしい。 駐在サンはその方向を見上げていた。 それは、その12時間程後に起きる大惨事を予見する様な姿だった。 駐在サンの前を通り過ぎ、民家の塀を過ぎると大きな茶店がある。 現在、市ケ原の河原のそばにある櫻茶屋は、昔は杉の茶屋と言って、ほとんど閉まっていた。 櫻茶屋とは、この大きな茶店で、そこの主人は村長的存在だった。 櫻茶屋を過ぎると階段になり、そこだけ自転車を担いで、その後は山道だが自転車で走れる。当時、天狗峡の存在を消してしまった大きな堰堤はなく、谷沿いに道があった。 その先、小さな堰堤が続く箇所の階段を越えると“砂止め”に到着する。 今はもう木々に覆われ“砂止め”は消えてしまったが、この頃はそこに市ケ原の河原と同じ位の大きい河原があった。夏休み、そこでトモダチと何日もテントを張って過ごした事がある。 堰堤工事の時に出た土砂をそこへ積みあげ、しかもハイキングルートも変ったので、“砂止め”はキャンプ等で使われなくなり、木々に覆われる様になったのだ、と思う。 あの大きな堰堤は、天狗峡と“砂止め”を消し去ってしまった、と言えるのかもしれない。 “砂止め”をジャブジャブ川の中まで走り回り、家へ戻ると雨が降り出した。 雨は土砂降りになり、安普請のトタン屋根を叩き続けた。 布引谷は森林植物園辺りで複数の谷と合流した後、南へほぼ真っ直ぐに流下していき、市ケ原を過ぎると世継山から延びる尾根に遮られ、大きく西方向へ曲がる。 そしてその尾根を廻り込むような形で貯水池に続いている。 西方向への曲がり角には、谷の延長方向にトンネルが掘ってあって、流れはこのトンネルから布引ダムのオーバーフローに繋がり、貯水池をバイパスしている。 貯水池への取水口はトンネルの100m程手前にあって、その間は巾約10m、深さ約5mの溝状になっている。その溝の上端に沿ってハイキングコース:我々の通学路が通っていた。 土砂降りの勢いは収まらない。10m×5mの溝が濁流で埋まって行く。 そしてトンネルの入口が見えなくなり、溢れた濁流は通学路にまで達した。 もう“ベツベン”へは行ける状態ではなくなった。 午後になって、山が崩れ出した。 布引谷を遮る尾根は、我が山の家の南正面に見えるが、その山腹に刻まれた急峻な谷が轟音と共に崩れていく。土砂、木々に混じって軽四輪車程の岩が空を飛んでいる。 数百mは離れているので、家までは飛んでこないと確信はしていた。しかし凄い光景。 次にその隣の谷が崩れた。 その谷は我が家他数軒の水源となっており、車道との出合はちょっとした広場になっており、オヤジは前夜、通勤に使っていた勤務先の3輪トラックを停めていた。 正面の谷ほど急ではないので、斜面がずり落ちた感じだったと思うが、それでも凄い音だった。 広場は土砂、木々で埋め尽くされオヤジのトラックを道端のコンクリート製柵まで押しだしていた。 轟音に驚いて近所の人が集まって来た。 当時、隣の茶店の先代サンはまだご健在で、おメカケさんを後妻にむかえ、その間に出来た娘、息子と一緒に住んでいた。二人の子供は既に社会人だった。 息子は傘が役に立たないと思ったのか、ズブ濡れの下着姿で出て来た。 南隣りは当時、三ノ宮に店がある床屋さんの別荘。 息子さんが2人いて、弟さんが来た時はよく一緒に遊んでいた。その日はお兄さんが赤ん坊を連れて来ていた。 日曜は商売だったハズ、多分午後には店に戻るつもりだったのだろう。しかし、土砂降りは益々激しく眼の前では山が崩れていく。もう帰れない。逃げ場もない。 赤ん坊をダッコしながら、「こうなったら親子もろともやぁ」と、叫んでいた。 親子もろとも?、ワタクシはそんな気は全くしなかった。 大体あんな両親と“もろとも”にはなりたくない。 お金がないからこんなトコへ家を構え、そこになれると「安気やからエエ」とダラしなく住み続けた夫婦。 その間ひとりムスコのワタクシを、雨の日も、風の日も、嵐の日も、歩いて通学させた夫婦。 そんなンと“もろとも”にはなりたくない。まだカワイイ女性と楽しくデートもしていないのだ。 しかし、そんなことより、ここは絶対安全だ、と言う感覚があった。 この辺りは尾根と言うか、山腹の出っ張った地形にあった。 従って、台風の時は強風をまともに受け、特に姫路辺りを通過する台風は、雨戸から窓まで飛ばして行った。 しかし、流れるモノ、崩れるモノは尾根には来ない。谷に集まるハズだ。土砂崩れは左右の谷側へ崩れていく。 また、布引谷の谷底は家から数10m下にある。浸水の心配もない。 昭和13年の阪神大水害の時もこの辺りに被害はなかった、と隣の先代サンも言っていた。 豪雨によりここで死ぬ事はない。 やがて日が暮れた。雨は相変わらずトタン屋根を激しく叩いている。 家から竹藪を隔てた先には高さ5m程の堰堤があり、その水の落下音が夜の闇の中では雨音に聞こえ、泊りに来た叔父さんなどは夜中に雨が降り出した、と思ったらしい。 しかし、この夜の音はザァ〜っと言う雨音ではなく、グォオ〜っと言う地響きに近いモノだった。 トタン屋根を叩く雨音と相まって、全体が微妙に揺れていた。 オヤジは多分、日が暮れる前から呑んでいたと思う。 台風なら強風に備えての“男の仕事”は色々あった。しかしこの日は風はない。あるのは上からの強烈な水滴だけ。それに対してする事は何もない。 もし数10mの深さを濁流が埋め、ここまで達したら。上に逃げるしかない。もし崩れるハズのない上の斜面が崩れたら諦めるしかない。 オヤジは呑むしかない。「ここがもしそうなったら、神戸自体がもうオワリやぁ」、と自分に言い聞かせるように言って呑んでいた。 しかしその時、500m程離れた村の中心地では布引谷の支流が暴れ出し、U本サンの家を押し流そうとしたため、男達は土嚢を積んだりと、大変な作業をしていたらしい。 フツーならオヤジも呼び出されていたと思う。しかしこの時点では村の連絡網は分断されていた。 ワタクシはボオ〜ッとテレビを見ていた。 四方を山に囲まれている家、テレビの画面はゴーストだらけ。しかし、テレビはテレビ、遊び相手の兄弟はいない、ゴーストをボォ〜ッと見ていた。 こんな豪雨の中、オフクロも勉強せよとは言わない。通学路は崩れてムチャクチャなハズだ。明日からしばらくは学校へ行かなくても済むかな、そんなフザケた事を考えながらテレビの前で寝そべっていた。 そして、カミナリが鳴りだした。何回目かの雷鳴の後、テレビが消えた。停電だ。 9時頃だった。電気が消えると何も出来ない。 親子3人は、二階へ上がり、「川」の字になって寝ることにした。 相変わらず、雨は激しくトタン屋根を叩いていた。布引谷はグォオ〜っと唸っていた。 そしてあのカミナリが、世継山頂上北側の高圧線鉄塔に落雷し、その衝撃で梅雨の終わりの脆弱になった斜面が崩れ、約150m下の櫻茶屋とそこに避難していた21人の命を奪った事を、翌朝眼が覚めるまでワタクシは知らなかった。 落雷した鉄塔は、樹木を切り倒し斜面を削って造られたグリーンの近くにあった。 朝、駐在サンが見上げていた方向だ。 土砂崩れの元凶が、ゴルフ場開発による自然破壊であった事は言うまでもない。 犠牲者21人の中には5人の小学生と、中学生になって初めての夏休みを迎えるマリちゃんがいた。 =========================== https://blog.goo.ne.jp/palehorse5266/e/f6081884ee775e47d2577c07b412745c あの大災害の記憶−反対し逃げた人と流され亡くなった人 2015-07-22 13:50:23 | 神戸布引谷での出来事 48年前の7月9日、梅雨の末期の集中豪雨で、布引谷・市ケ原の東側に聳える世継山の北西面が崩れ、大きな茶店周辺を押し流し、21人が亡くなった。 そこは市ケ原の中心的な場所であり、決して急斜面の真下ではなく、世継山が中腹からなだらかに広がる斜面の下にあった。周囲には別荘が点在し、駐在所もあった。 神戸では昭和13年に、三ノ宮が土砂で埋まった大水害があったが、その時市ケ原では、家が流されるような被害はなかったそうだ。「ここは大丈夫じゃあ」と、隣の好々爺は何度も行っていた。 しかし48年前、昭和42年7月の豪雨では、大きな茶店の周囲一帯を押し流すほど、世継山は崩れた。それはナゼか。 それは今、新神戸ハーブ園がある、世継山の南面から頂上、更に北に延びる尾根に沿ってゴルフ場ができ、その為に多くの木々が伐採され、斜面が脆弱になったからだ。崩れた斜面の上部には、山腹を切り取って何番かのホールが出来ていた。つまりゴルフ場開発造成による人災となる。 我が山の家は、世継山の南西面の下にあるが、幸い、南西側にはゴルフ場のコース等はなかった。 このゴルフ場は、昭和33年に造成工事が申請され、翌年に公園法の基準にそって厚生省が認可したそうだ。世継山周辺は瀬戸内海国立公園六甲山地区に入っている。 公園法の基準とはその開発が風致、景観に害がないかどうか、公園の利用として適しているかどうか、であって災害対策についての基準はないらしい。 しかし、昭和36年の神戸市の水防会議では、この地域を山津波の危険地区として指定していたとか。 にもかかわらず、厚生省:国が認可したこととして、市も県もゴルフ場造成工事にモンクを言わなかったらしい。 そもそもこのゴルフ場、公園の利用として、適していたのだろうか。 ゴルフ場の入り口は確か、今のハーブ園の新神戸ロープウェイ中間駅辺り。地図を読むと、そこから世継山の頂上付近まで、水平で約500m、高低差、約100m。 この勾配、スキー場としては快適なスロープだと思うが、ゴルフ場としはどうなのか。しかもその先は細い尾根が天狗道・稲妻坂へ続く。 尾根の下の斜面を段々畑の様に削り、コースを作ったのか。そこまでしてゴルフをやりたいのか。 そして、エエカゲンに斜面を削れば崩れる。 昭和30年代、時代は高度成長期。風致、景観に害がないかどうか、と言うよりむしろ、商売になるならイケイケドンドン、と言うコトではなかったか。 熊本・水俣の奇病を調べるため、医学生の原田サンとかモノ書きの石牟礼女史が、かの地を徘徊し始めたのも、確かその年代だったはず。 公害、災害より経済、それは今も続く愚かなこのクニの選択。 反戦、非戦の対極にある、勇ましい勢力のバックには、軍産複合体と言うノがあって、ウラでクニを動かしているらしいが、ソイツ等は正に、人命より何より、経済なのだろう。と同時に、どこかの国から攻撃されたらどうすンの?、と不安を煽っている。 そして経済と不安に、このクニのタミは弱い。 もうそろそろ目覚めて、不安には煽られず、経済より反戦、競争原理より相互扶助、貧しくても平等がイイ、と言う風にならないモノなのか。 ワタクシが布引谷・市ケ原に引っ越しして来たのは、、昭和32年。 翌33年は、駐在所の息子ヨッちゃん、父子家庭のタダシくんと一緒に、麓の熊内幼稚園に通っていた。 そして、昭和34年には、市ケ原在住の平井某氏を代表者とする、ゴルフ場工事災害防止対策委員会と言うのが出来て、ゴルフ場開発に反対していたらしい。 しかし、この平井某氏の名は、当時のオトナの会話からも聞いた事がなかった。 またゴルフ場開発に伴い、車道が出来て喜ぶオトナの会話はあったが、ゴルフ場開発造成に反対する会話も聞いた事がなかった。 48年前、土砂崩れで亡くなった大きな茶店の主人の遠縁にあたり、今も布引谷で一人、茶店をガンバっておられる女性も、平井某氏を知らないと言う。 「ただ別荘がポツポツ出来てなぁ、そこに住んでた人らのコト、よう知らんねン」とは、言っていた。 確かに、ワタクシが5年生の時、雲中小学校の開校90周年で発行された同窓会名簿には、昭和24年と31年の卒業生に、市ケ原在住の平井姓の名がある。 明治の初め、布引貯水池のダム工事でやって来た人達が、工事が終わった後、ダムの上流に住みついたのが、市ケ原の集落の始まりらしい。主に高知人で、茶店のオバさん達は、「〇×△じゃきに」、「%$*しちゅうきに」と喋っていた。 その“高知族”とは別に、昭和30年頃、“別荘族”ができたのかも知れない。 6月末、布引谷・山の家を片付けていたら、古い写真に紛れて、古いハガキが出てきた。 小学生のワタクシに、担当教師から送られてきた年賀状の返事が殆んどだったが、その中にナント、オヤジ宛ての平井某氏の年賀状があった。 昭和38年のモノで、住所は灘区の山手、阪急六甲行き市バスが通る、坪単価100万(?)のエリアだった。 オヤジはその前年、胃潰瘍で胃を2/3切除し、その後の血清肝炎で3ヶ月を病院で過ごしている。布引谷・市ケ原での人付き合いなどロクに出来なかったはずだ。また、昭和34年に災害防止対策委員会を作った時の平井某氏は、60歳だったそうで、オヤジとは親子ほどの年齢差、話をするキッカケすらなかったと思う。 何故、平井某氏から年賀状が届いたのか。 ゴルフ場が営業を始めたのは、昭和38年だったハズだ。その年、ゴルフ場の従業員が市ケ原に住み始め、同級生が二人増えたことで憶えている。 つまりその前年に平井某氏は、災害の危険性がある市ケ原の別荘から、坪単価100万(?)の灘区に居を戻し(?)、布引谷に残る住民の多くに、挨拶代りの年賀状を送ったのかも知れない。 いずれにせよ結果的には、この平井某氏の転居判断は正解だったが、街へ逃げ出す事が出来る、“別荘族”がゴルフ場の開発造成に、明確に反対の意を示し、片や、逃げ出せず、土砂崩れでそのほとんどが亡くなった“高知族”が、反対しなかったことに、奇妙な、何とも言えない感慨を覚える。 この因果と応報をどう消化すればいいのか。 昭和38年頃、布引谷・市ケ原には、“高知族”と、ワタクシ一家のように布引谷に移り住んだ“移住族”が、50人以上住んでいたと思う。 そしてその全てが、ゴルフ場工事災害防止対策委員会とは無縁だった。 そもそも、“定住族”の多くは、ヤバそうな事態に、市街地に避難できる親族がいた。 とは言え、“高知族”も“移住族”も、誘致した訳でもない。ゴルフ場自体に無縁だったと言えるかも知れない。 ただ、ゴルフ場が崩れで亡くなった大きな茶店の主人は、県からも表彰され、市ケ原の村長的存在だったが、あるオバアサンが、自宅に関係するゴルフ場付帯工事に素直に同意しなかったので、ゴルフ場サイドに協力し、説得に当たった、と言うネガティブなウワサを聞いた事はある。 この主人の遺体は、貯水池の水を抜いて捜索し、一番最後に見つかった、と記憶している。 そして、ゴルフ場工事災害防止対策委員会の主体になったと思われる“別荘族”が、当時何人いたかは想像も出来ない。 今はバーベキュー族で賑わう、市ケ原の河原から少し川沿いに歩くと、48年前に流された家財類らしきものがまだ残っている。 しかし、大きな茶店があった周辺には、慰霊碑等はない。 別荘が点在した辺りは雑草、木々が猛烈に生い茂り、ここに集落があった面影は微塵もない。